2009年06月30日
日本の教育は、あれれ・・・でないですか? ・・・ちょっとまったシリーズ3・・・・
2009年7月1日付
今回は、教育テーマの話しで、批判ばかりのつもりではないのですが、
どうもそんな調子になってしまうことをお許しください。
まず、はじめに、先日TVで放映されたドキュメントにおける
元三鷹高校の土肥校長先生に敬意を表したいと思います。
マスメディアをあまり評価していない私としても讃える報道ですが、
日本人の相変わらず法律や行政組織に操られてしまう体質が見受けられ、
それに負けずに土肥校長の子供の未来を築く姿勢には感服いたしました。
たぶん、そこで育った子供たちは、何か大事なものを得たことでしょう。
さて、
社会に出て今、考えてみると学校で学んだことがどの程度活きているのだろうか?と思うと中学校ぐらいの基礎知識があれば実際の生活や仕事の8割程度をこなせるように思います。読み書きや計算が普通ぐらいにできていれば十分かなあと思います。それよりも、信頼、心持ち、自己管理、そして、性格の方がもっともっと大事です。たぶん、普通より優れているとか秀でているようになることは、ただ単に『そうだったらいいなあ〜、そうなりたいなあ〜』と願っていることが他の人より強いと言うことだけだとと思うのです。才能は、自分が居る環境で変わります。
つまり、少しぐらい大変でも辛くても何か向こうに楽しい環境や世界があるように思ったのでしょうが、それが原動力で勉強したり、人に話しを聞いたり、見に行ったりとそれは、教科書では書ききれない『自主的な大いなる知識』を自身に植え付けながら成長したのだと思います。なので、ある面自動的に教室や教科書が与えられ、剣道ばかりしていた高校時代は、あまり身についていないように思います。もちろん無駄ではないのでしょうが。そんな高校生の時に将来何に成りたいと聞かれても、身近な言葉で、社長かなあ〜ぐらいしか答えられないのが普通でしょう。逆に希望する職業をすぐ言える生徒は、変わり者ぐらいにしか思わなかったですね。もちろん、それは、完全に家庭環境によりみんな違うのでしょうが。
その自主的な大いなる知識を得る行動に出たのは、大学2年生の後半頃からだと思います。日本の大学の楽観的な環境は、どこもそう違わないのでしょうが、まったくひどかったですね。自分の心の中では、アメリカに行くための寄り道ぐらいの感覚でしか思っていなかったのでしょう。こんなんで社会に出ていいのかなあ??とも思いました。建築設計の授業は、いつも優秀な方(井の中の蛙くん!)だったけれど、大学がキリスト系だったのでイギリス人の牧師にお願いして、彼女の家で毎週英語を一人で習っていました。もちろん、無料です。その時点では、アメリカ英語とイギリス英語の違いを分かりませんでしたので、アメリカの特に黒人系の会話は、全く分かりませんでした。でも本当に、本当にありがたいことです。
そして、卒業設計を取り組み始めた頃、一冊の本に出会い、感銘して覚悟を決め、『自然エネルギーを大事にする建築環境計画』の分野で多くの著名な講師陣がいる米国アリゾナ州大学に行ってしまいました。南西部のカリフォルニア州の内陸側で、州都は、フェニックスで砂漠の大都会と呼ばれています。年363日晴れです。乾燥して痛いほど暑い!これは参った!と言う感じです。でも全てがリゾート地のようで楽しかったなあ、美しかったなあ・・・・話が、私の履歴書になってしまいましたね。
でもここで、少しの間、外国で生活した日本人として意見が言えるとしたら、日本での教育委員会だとか文科省とかで教科書の紋々で騒いでいるのを見ると悲しくなってしまいます。私は、教育家という職務は、ただ素直にその人や子供がより楽しく『自主的な大いなる知識』を求めるようになる環境を整えるだけで十分だと思います。とにかく、その自主性を呼び起こすことがない限り健やかな成長などあり得ないと断言できます。そして、成長する過程でいろいろな異なる意見や考え方を知ることが大切です。つまり、社会とは、さまざまで在り、歴史とは、探るものだと知らせることができる教科書(基本を知らせるガイド)があれば良いのです。事実はあるが、何をしたかではなく、何のためにしたかを知る!ことが肝要です。だから、いろいろ楽しいのではないでしょうか。
日本では、すべてと言ってもいい程、難しすぎる、完璧を求めすぎる、型にはめすぎる、記憶させる、そして、細かすぎる教育や社会環境が、委縮する子供と、そして大人社会をつくってしまっているように映ります。その元凶の大人が、特に指導者と呼ばれる人達が、『過ぎたるは及ばざるがごとし』という言葉を理解できず、実行できていないのでは、子供たちや何かを学ぼうと志す人は可哀そうです。
やっぱり、記憶能力が少しだけ他の人より優れた人達に、記憶学問をベースとした難解なお仕着せ社会にみんなが躍らされていることにそろそろ気がつかなくては・・・・・〜先生だの、〜大学だのというだけで尊敬してしまう、この程度の見識である日本人社会は辛いですね〜。政治家でも、医師でも、教授でも・・・何のために、その人は、どんなに素晴らしい能力を発揮し、身を尽くしているの?・・が大事です。
そこで教育が本当に大事になるのでは・・・・お〜おっとおもしろいぞ!と。
要は、より自主的な行動を喚起する環境づくりではと思います・・・・
学ぶことは楽しい、
そして、生み出すことが楽しい、
ついには、人々を幸せにすることが嬉しい、
と育まれることが教育の原点と私は、思います。
皆さんは、どうお考えでしょうか? そして、建築設計を志す人達に知らせたいですね。いろいろ辛いこともあるけれど、学ぶ環境さえ間違えなければ楽しいぞ・・・と。
建築計画ディレクター ジェイより
今回は、教育テーマの話しで、批判ばかりのつもりではないのですが、
どうもそんな調子になってしまうことをお許しください。
まず、はじめに、先日TVで放映されたドキュメントにおける
元三鷹高校の土肥校長先生に敬意を表したいと思います。
マスメディアをあまり評価していない私としても讃える報道ですが、
日本人の相変わらず法律や行政組織に操られてしまう体質が見受けられ、
それに負けずに土肥校長の子供の未来を築く姿勢には感服いたしました。
たぶん、そこで育った子供たちは、何か大事なものを得たことでしょう。
さて、
社会に出て今、考えてみると学校で学んだことがどの程度活きているのだろうか?と思うと中学校ぐらいの基礎知識があれば実際の生活や仕事の8割程度をこなせるように思います。読み書きや計算が普通ぐらいにできていれば十分かなあと思います。それよりも、信頼、心持ち、自己管理、そして、性格の方がもっともっと大事です。たぶん、普通より優れているとか秀でているようになることは、ただ単に『そうだったらいいなあ〜、そうなりたいなあ〜』と願っていることが他の人より強いと言うことだけだとと思うのです。才能は、自分が居る環境で変わります。
つまり、少しぐらい大変でも辛くても何か向こうに楽しい環境や世界があるように思ったのでしょうが、それが原動力で勉強したり、人に話しを聞いたり、見に行ったりとそれは、教科書では書ききれない『自主的な大いなる知識』を自身に植え付けながら成長したのだと思います。なので、ある面自動的に教室や教科書が与えられ、剣道ばかりしていた高校時代は、あまり身についていないように思います。もちろん無駄ではないのでしょうが。そんな高校生の時に将来何に成りたいと聞かれても、身近な言葉で、社長かなあ〜ぐらいしか答えられないのが普通でしょう。逆に希望する職業をすぐ言える生徒は、変わり者ぐらいにしか思わなかったですね。もちろん、それは、完全に家庭環境によりみんな違うのでしょうが。
その自主的な大いなる知識を得る行動に出たのは、大学2年生の後半頃からだと思います。日本の大学の楽観的な環境は、どこもそう違わないのでしょうが、まったくひどかったですね。自分の心の中では、アメリカに行くための寄り道ぐらいの感覚でしか思っていなかったのでしょう。こんなんで社会に出ていいのかなあ??とも思いました。建築設計の授業は、いつも優秀な方(井の中の蛙くん!)だったけれど、大学がキリスト系だったのでイギリス人の牧師にお願いして、彼女の家で毎週英語を一人で習っていました。もちろん、無料です。その時点では、アメリカ英語とイギリス英語の違いを分かりませんでしたので、アメリカの特に黒人系の会話は、全く分かりませんでした。でも本当に、本当にありがたいことです。
そして、卒業設計を取り組み始めた頃、一冊の本に出会い、感銘して覚悟を決め、『自然エネルギーを大事にする建築環境計画』の分野で多くの著名な講師陣がいる米国アリゾナ州大学に行ってしまいました。南西部のカリフォルニア州の内陸側で、州都は、フェニックスで砂漠の大都会と呼ばれています。年363日晴れです。乾燥して痛いほど暑い!これは参った!と言う感じです。でも全てがリゾート地のようで楽しかったなあ、美しかったなあ・・・・話が、私の履歴書になってしまいましたね。
でもここで、少しの間、外国で生活した日本人として意見が言えるとしたら、日本での教育委員会だとか文科省とかで教科書の紋々で騒いでいるのを見ると悲しくなってしまいます。私は、教育家という職務は、ただ素直にその人や子供がより楽しく『自主的な大いなる知識』を求めるようになる環境を整えるだけで十分だと思います。とにかく、その自主性を呼び起こすことがない限り健やかな成長などあり得ないと断言できます。そして、成長する過程でいろいろな異なる意見や考え方を知ることが大切です。つまり、社会とは、さまざまで在り、歴史とは、探るものだと知らせることができる教科書(基本を知らせるガイド)があれば良いのです。事実はあるが、何をしたかではなく、何のためにしたかを知る!ことが肝要です。だから、いろいろ楽しいのではないでしょうか。
日本では、すべてと言ってもいい程、難しすぎる、完璧を求めすぎる、型にはめすぎる、記憶させる、そして、細かすぎる教育や社会環境が、委縮する子供と、そして大人社会をつくってしまっているように映ります。その元凶の大人が、特に指導者と呼ばれる人達が、『過ぎたるは及ばざるがごとし』という言葉を理解できず、実行できていないのでは、子供たちや何かを学ぼうと志す人は可哀そうです。
やっぱり、記憶能力が少しだけ他の人より優れた人達に、記憶学問をベースとした難解なお仕着せ社会にみんなが躍らされていることにそろそろ気がつかなくては・・・・・〜先生だの、〜大学だのというだけで尊敬してしまう、この程度の見識である日本人社会は辛いですね〜。政治家でも、医師でも、教授でも・・・何のために、その人は、どんなに素晴らしい能力を発揮し、身を尽くしているの?・・が大事です。
そこで教育が本当に大事になるのでは・・・・お〜おっとおもしろいぞ!と。
要は、より自主的な行動を喚起する環境づくりではと思います・・・・
学ぶことは楽しい、
そして、生み出すことが楽しい、
ついには、人々を幸せにすることが嬉しい、
と育まれることが教育の原点と私は、思います。
皆さんは、どうお考えでしょうか? そして、建築設計を志す人達に知らせたいですね。いろいろ辛いこともあるけれど、学ぶ環境さえ間違えなければ楽しいぞ・・・と。
建築計画ディレクター ジェイより
この記事への今までのコメント
1. Posted by マスコミの報道 2009年07月01日 00:26
「職員会議で一般の先生が意見を述べてはならない」というのは間違いです。むしろ都教委も、「積極的に意見討論してほしい」と勧めています。職員と校長が活発な討論をしたうえで、最後にどうするかを決める際、職員の多数決ではなくて校長自信で決めてください(職員の多数決で決めるの禁止)ということです。これは、校長が何かを決めて学校改革をしようとしても、すべてに反対して改革を阻止しようとする教員がいることが原因です。基本的に教職員は保守的ですから、新たなことを嫌います。しかしこれでは、学校が停滞したままになってしまいます。
意欲ある校長が学校を変えようとしても、なんでも反対する教員による多数決によって、お飾りの校長になってしまっている学校が少なくなかったのです。
決して討論を禁止しているわけではありません。テレビの報道はどうも一方的な気がします。
意欲ある校長が学校を変えようとしても、なんでも反対する教員による多数決によって、お飾りの校長になってしまっている学校が少なくなかったのです。
決して討論を禁止しているわけではありません。テレビの報道はどうも一方的な気がします。
2. Posted by グラスワンダー 2009年07月12日 11:00
思想を教育現場などに持ち込んでいるのが明確であり、そして「権力側は悪」と決め付けを行っている。
(東京都教育委員会がまともかといえば、それも全部が全部まともだとは思ってもいないが。)
しかしこういう人たちは残念ながら子供を見る前に「自分の思想ありき」というところから入っているため、歴史の授業で反日教育をしたり、教育現場に日の丸なんかいらないという英訳文のTシャツを着たり、卒業式で日の丸掲揚に反対し、君が代斉唱での不起立を求めたりする。
しかもこの校長の応援団は前に紹介した通り、憲法九条であったり教科書ネットであったりと、ある一方の考えに偏った者達だけが存在している。
東京都教育委員会は、この校長を不適格と判断すべきである。
三鷹高校職員の話によると、この校長は気に入らない職員に対しては陰湿ないじめをするとのこと。
学校内に言論の自由などなく、ダブルスタンダードな人物だ。












